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Channel: 待っててコイサンマン
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"1972年10月、飛行機がアンデス山中に不時着して、乗客は極度の飢餓状態となり、先に死んだ乗客の死体を食べて生き延びたという事件があった。 ウルグアイ空軍機571便遭難事故 -..."

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1972年10月、飛行機がアンデス山中に不時着して、乗客は極度の飢餓状態となり、先に死んだ乗客の死体を食べて生き延びたという事件があった。

ウルグアイ空軍機571便遭難事故 - Wikipedia

全員キリスト教だった乗客たちは、最終的に、一人一人神に問いかけ、その神との対話の中で納得した人は死体を食べて生き延びた、という。もしこれが日本人だったらどうなったのか。


たぶん、全体ではなんとなく議論して、でも陰でいろいろと根回しをして、一対一だと本音で話して、『空気』を読んで、みんなが納得したようなら、食べるでしょう。一番年上の人が、『長幼の序』で最初の一口を食べるかもしれません。逆に、『長幼の序』で一番若い人間がまず、食べさせられるかもしれません。『神秘性』に頼って、じゃんけんとかくじ引きで、最初に食べる人を決めるかもしれません。誰か一人だけが食べないことは許されないでしょう。日本人が作る『世間』という集団は『無差別で排他的』ですし、誰かが一番に食べるという積極的な『犠牲』を選んだ後は、『贈与・互酬の関係』によって、その犠牲としての贈り物をムダにはできないので、みんな食べるという決定に従うでしょう。全員が食べたのに、一人だけ食べずに餓死した場合、その死体は、食べたのに(ケガなどで)死んでしまった人に比べて、暗黙の了解の中で『差別的で排他的』に扱われるのではないかという想像も働きます。(同掲書 P89)


確かに、20年前の日本人なら、間違いなくこのようなプロセスで事を決めただろう。西洋の神の役割を日本人にとっては『世間』が担っている、ということだ。極限の判断の基準さえ与えてくれるのが世間だ(だった)。日本人にとって、世間という存在がいかに重要である(あった)のかが理解できる非常にわかりやすい説明だと思う。(余談だが、日米開戦も原子力発電所の建設も、おそらくこのような、西洋的価値観から言えば非合理なプロセスで決まったのだろう。『科学的に』とか『理性的に』という掛け声が如何に日本の決定のプロセスの実態を知らないナイーブなものかを思い知らされる。)



- ほんの少し強い『個人』になって『社会』に向かう生き方 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る

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